column 「作りやすさ」が「使いやすさ」へ

はいずれ壊れていくことが普通だが、できる限り長く使えるものでありたいと思う。また普段使いのものだからこそ、臆せずに安心して使えるものであれば尚良い。では本業窯では使う人の気持ちに寄り添って器づくりをしているかというと、誤解を恐れずに言うと決してそういうわけではない。
そもそも本業窯の陶器の特性として欠けにくいということはあるが、その丈夫さや使いやすさは、たくさん作り続けられるかどうかということの副産物であると言っても過言ではない。

最もわかりやすい例で言うと、昭和55年頃までは登り窯で焼いていたため、窯焼きの回数が限られており、一度に窯の中にたくさんの器を入れる必要があった。そのためにお皿とお皿の間に板を挟んでたくさん積み上げる必要があり、その重さに耐えるために器を分厚く作らなければいけなかった。
つまり「作りやすさ」が「使いやすさ」に転じただけなのである。そういう意味でも作り手として思うことは、大切に使ってほしいというよりも、より身近に、欠けても気にせずに使ってほしいと思う。

作り続けられるかどうかが基本にある

れぞれの器の形には理由がある。まず大切なのは作り手が継続して作り続けられる、自然な形であるかどうか。作り手のリズムや呼吸がその形に残る。
分業で一人一人が同じ工程の仕事を反復することでクオリティとスピードが上がる。
例えば定番の湯呑みは、ろくろで成型する際に口の部分をS字にすることで歪みにくくなることからその形になっている。それが結果として、手になじみ持ちやすく、また口が袋状になることで、中身が冷めにくくなっているのである。あくまで比重は生産性にあるのだ。

本当の手仕事とは

、皿の重ねなどは反復の仕事で揃えられるようになる部分だが、同じ皿を作ったとしても、七代の重ねと八代の重ねは微妙にニュアンスが異なる。手仕事はこうなんだという、お互いが求めて、たどり着いたところが違う。
焼き物は絵付けや釉薬の色味が注目されがちだが、作り手の熟練した技術を伴うろくろ仕事から生み出される形にこそ意味があると思う。これは六代半次郎も常々言っていたことである。
柳宗悦の心偈(こころうた)で、『文エガケ 文ナキマデニ』というものがある。文(あや)とは模様であり、模様は何を描いてもよいが、必要最小限にまで切り詰めてこそ味わいが溢れ出る。それは文あって、文なき境地である。ということを伝えると同時に、模様に描かれるような繰り返しの仕事がいかに優れているかを伝えている言葉でもあると思う。